日本をめちゃめちゃにしてやる宣言

http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00166497.html

毎日新聞のシンポジウムで、仙谷由人行政刷新担当相は「事業仕分け」について「これまで一切見えなかった予算編成プロセスのかなりの部分が見えることで、政治の文化大革命が始まった」と発言した。

痛いテレビさんより引用)

文化大革命(ぶんかだいかくめい)とは - コトバンク

知恵蔵2009の解説
1966年夏から10年間にわたって繰り広げられた熱狂的な大衆政治運動。毛沢東自ら発動し、中国では「無産階級(プロレタリア)文化大革命」といわれた。「造反有理」(謀反には道理がある)を口々に叫んだ紅衛兵運動に始まり、指導者の相次ぐ失脚、毛沢東絶対化という一連の大変動によって、中国社会は激しく引き裂かれ、現代中国の政治・社会に大きな禍根を残して挫折した。文革は、62年9月の中国共産党第8期10中全会における毛沢東の「絶対に階級と階級闘争を忘れてはならない」との指示から出発したとされ、「資本主義の道を歩む、党内に潜む一握りの実権派」を打ち倒すことが命題であった。69年の中国共産党9全大会(第9回党大会)では、林彪が党副主席に選出され、党規約で毛沢東の後継者に定められた。文革林彪防相が指揮する人民解放軍の介入によって初めて、劉少奇トウ小平らの実権派に勝利した。一方、様々な局面で毛沢東家父長体制絶対化への抵抗が生じた。杭州事件(75年)や天安門事件(第1次、76年)は、毛体制への大衆の反逆にほかならない。毛沢東側近の王洪文張春橋江青姚文元ら四人組も76年10月の北京政変によって打倒され、華国鋒体制に取って代わられた。北京政変は四人組らの文革左派と華国鋒らの文革右派との権力争いであったが、やがて78年12月の3中全会でトウ小平のリーダーシップが固まり、非毛沢東化が始まった。文革には共産党内部の権力闘争と、その大衆運動化という二重の性格があり、悲劇は拡大した。文革中の奪権闘争や武闘で約2000万人もの死者が出たともいう。
( 中嶋嶺雄国際教養大学学長 )

行政刷新相がこの体たらく。
バカなんでしょうか。バカなんでしょうね。