追悼 最高の野球選手

始めに見たのは大学2年時。
安チケットを手に見に行った東京ドームの日ハム−ロッテ戦だった。
外野の守備固めで8回に登場した。
そのときの電光掲示は「木 村」だけだったので
下の名前がジャニーズと同じだというのは,カープに移籍してから知った。
 
横浜スタジアムに,久々に会った大学の先輩と同期と4人で行った時。
コイ土壇場 逆転勝ち(97/7/5 中国新聞)
9回表,1点差。2死二三塁。代打。
マウンドには佐々木。
拓也は打ってくれた。得意の直球。
全盛期の佐々木を,あの小さな体で打ってくれた。衝撃だった。
6点差をひっくり返す,大逆転劇。
一気に俺は拓也信者になった。
 
ドラフト外入団で,キャッチャー出身だというのに驚愕した。
器用さなら高信二,泥臭さなら正田耕三を足して2で割った野球への取り組みは
誰からも愛された。
走り方も泥臭かった。
 
達川〜山本浩二第二期政権,暗黒期の屋台骨は拓也だった。
拓也の打った本塁打1本しか安打がなくて,勝った試合もあった。
1安打勝利で連敗止める 木村先制アーチ(00/5/23 中国新聞)

スタメンをこなしながら,控え選手を1人3役くらいでこなした。格安だった。
その浮いた金で投手陣をなんとかすれば良かったのに,今にして思えば暗黒政権は何をしていたのだ。
 
そして世界のスーパーサブに選出されたアテネ
中畑ジャパンで拓也の活躍が日の目を見ることはないかと思われたが,
3位決定戦で勝利を決定付ける活躍。

 
あとはいつマウンドに登り,全ポジション制覇の金字塔を打ち立てるか。
カープファンの楽しみは,ついに叶えられることはなかった。
    
固定されつつあったサードでの打球処理に弱く,また打力の非力さゆえ打点を挙げられない。
ブラウン政権において,拓也は福地とともに,居場所を無くした。
 
そうして拓也は,巨人に行ってしまった。
 
数年後。なくてはならない存在になっていた。ファンに愛されていた。 
 
遠くに転出してしまったいつも明るい同期が,元気にしていてうれしい。そんな感覚だった。
  
拓也を重用し,生き場所を与えた原の采配は,ブラウンより数段秀でていた。

 
そして拓也は,グラウンドで倒れるまで,チームのために,野球に取り組み続けた。
 
最期まで男前だった。
 
拓也。本当にありがとう。あなたは最高の野球選手だった。忘れない。
  
なぜ。なぜこんなにいい奴が。なぜこんなに早く逝ってしまうのか。
 
信じられない。拓也も,残された家族の皆さんも,あまりに不憫でならない。